兵庫県立生野高等学校 同窓会ブログ3/生野義挙から150年を経て

各地でご活躍中の卒業生や友達、在校生、郷里、一般の皆さん、どんどんご参加下さい。このブログは、同窓会facebookに上げたオリジナル記事のうち、「生野義挙から150年を経て」シリーズを収録した「デジタルライブラリー」です。

「生野義挙」から150年を経て(その25)生野代官所はどう動いたのか?(2)

生野代官は農兵にどんな態度だったのか?

挙兵時、代官所はどのような行動をとったのか?

 

義挙の事変に対し、生野はどのように動いたのでしょうか?経緯に沿って順に見てゆきましょう。

まず、事変前と事変直後、代官所側はどう動いたのでしょうか?

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この図は、DVD『維新の魁 夜明けを信じた志士たち』に使われていた「生野銀山町絵図」(生野書院蔵)

現在の口銀谷地区ですが、幕末期の町はこのようになっており、町の入口(上方、現在の小学校位置)に広大な塀で囲まれた生野代官所がありました。(明治9年以降に描かれた絵図なので、代官所は既に解体され、何も描かれていない)

町の南北の入口には口番所が置かれ、外縁は堀を穿ち総構えの城下町風の造り。役人等の主要人物以外は町内に宿泊はならぬとされ、播磨口番所のはずれにわずかな宿屋街があり、番所は柵を立て門を構えていました(午前6時~午後10時の間のみ開門)。

但馬と播磨を往来する一般の旅人は、直接生野の町には入れず、森垣村より別ルートで但馬街道を通ったそうです。

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(1)生野代官は農兵にどんな態度だったのか?

銀山としての最盛期は江戸初期で、その後、産出量は徐々に減少。幕末期には鉱山や町は疲弊、住民は困窮していたと言われる。

嘉永6年(1853年)、黒船が来航した頃から、代官所領地でも海防が重要化。代官所は徴税等の文官が多く、武力を持たないため、有事の際は近隣の藩に頼らざるをえなかった。

そこで豪農の北垣晋太郎らが、生野代官・川上猪太郎に海防への農兵組織化を働きかけていた。(生野代官は交代が激しく、川上は文久3(1963)年8月着任したばかり)

文久3(1963)年9月、「農兵組立会議」が開催される際、代官も協力的で役人を派遣すると返答。2回の会議に代官所役人2名が参加した。

会議の呼びかけにも協力し、各村々に「農兵周旋方」等の役割も指名。

この裏には、但馬に潜伏していた美玉三平、本多素行(虚無僧)、平野国臣ら志士の工作があった。

義挙の際、代官・川上はまさか農兵が代官所を占拠するとは思わなかっただろうが、農兵の組織化に自ら加担した面もあり、内面は忸怩たる思いだった?

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(2)挙兵時、代官所はどのような行動をとったのか?

生野での挙兵は、大和の「天誅組」蜂起に呼応するものだったが、義挙直前の9月27日壊滅。不穏な動きは代官所側にもいち早く伝わり、浪士らの動きを警戒中だった。

代官・川上は倉敷に出張中だったが、出発前、出石藩や村々に警戒の報を発し、藩兵の宿割、兵糧、夜具、他まで細々と指示。代官所襲撃は十分予測されていた。

生野挙兵時は、留守を預かる元締・武井庄三郎が穏便な計らいで対応。無抵抗で代官所を明け渡し、銀山を戦禍から救った。

挙兵前日の11日午後、志士一行が森垣村・延応寺に入った頃から、事前に情報を入手。一行との交渉で、宿所として町中の「丹後屋」を斡旋。一行は「播磨口番所」を通過後、丹後屋で一息。

この間、一行の動きは代官側に筒抜け。旅籠から武井のもとに以下のように刻々と連絡。「夜半にわかに志士らは酒飯を乞い、わらじ等を呼び、身づくろいしたので大いに驚き、早速代官所へ連絡。その後、甲冑、後ろ鉢巻、連判状を読むので、またまた代官所へ注進」

この情報があった12日午前2時頃、武井はいち早く出石藩・姫路藩へ討手差向けの密使を派遣。

同時刻、志士らは甲冑に身を包み、戦い支度で代官所を包囲。表門を開かせ、一気に突入し無血占拠。「陣屋」を本陣と定めた。(占拠は12日と13日のみ、14日には破陣しもぬけの殻)

しかし、この突入時も、武井の手配で、武器は槍の柄を折るなど使えないようにしてあった。

13日、本陣では近隣諸藩の鎮圧出兵を阻止するために、出石藩、因幡藩、福本藩(旗本池田家の陣屋)に使者を送ったが、武井の密使の方が早く、効なきものに。

陣中では、大阪に居る福岡藩や鳥取の因幡藩の有志へも応援を求めたが、これらも効果なかった。

(共同管理人:秋山恒夫)

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投稿日: 2014年3月25日 投稿者:

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