兵庫県立生野高等学校 同窓会ブログ3/生野義挙から150年を経て

各地でご活躍中の卒業生や友達、在校生、郷里、一般の皆さん、どんどんご参加下さい。このブログは、同窓会facebookに上げたオリジナル記事のうち、「生野義挙から150年を経て」シリーズを収録した「デジタルライブラリー」です。

「生野義挙」から150年を経て(その28)生野代官所はどう動いたのか?(5)

〔補足〕明治期における「生野代官所」の完全破却 

先ほど地元の生野から参加した「伊藤龍太郎」(生野代官所・剣術指南)をご紹介した際、DVD『維新の魁 夜明けを信じた志士たち』に使われた「生野銀山町絵図」から、代官所部分のアップを取り上げましたが、奇妙な絵になっているので、コメントしておきましょう。

比較用に以下の図を上げますので、見比べてみて下さい。

27-2 IMG_2860

この図は、「生野銀山町絵図」の代官所部分のアップ(破却後)。

27-3 生野代官所絵図(生野書院企画展チラシ「生野代官所の世界」20090228から) - コピー

27-4 IMG_2804 - コピー

この2枚は、以前上げた代官所の絵図2枚(破却前)。

最初の「生野銀山町絵図」は調べたところ、事件があった文久3(1863)年10月当時のものではなく、それから14年後の明治9(1877)年、猪野々に新たな鉱山工場群や官舎群等が大々的に建設された後に描かれたもののようです。

この間、以下のような経緯があり、明治5(1872)年、旧代官所建物は完全破却されました。

慶応4(1868)年、新政府軍が鉱山と代官所を没収。旧代官所を使って旧代官支配地を統治する「府中裁判所」を設置。

明治元(1868)年、鉱山を管理する「鉱山司出張所」を設置(判事に朝倉清吾)。

明治2(1869)年、新政府は鉱山の官営化を強引に実施。

明治4(1871)年、反対する住民らが大暴動、新築の鉱山局生野鉱山機械所(精錬所)を焼き払った。

翌明治5(1872)年、幕府の遺制を一掃すべく、代官所建物は城壁と外堀を除き全て破却。

明治11(1879)年、この場所に口銀谷小学校を建設。

大正末期、旧代官所跡地に残っていた城壁と外堀もすべて取り壊された。

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このため、破却後のこの絵図には中に何も描かれていないようです。

しかしこの代官所跡地をよく見ると、後ろの方に妙な建物がいくつも見えるのがわかります。

代官所は当時「約1万1000坪」(≒1000間×1000間≒200m×200mに相当)もの広大な敷地だったとあるので、この絵から推測するに、主建物を解体した後、元の敷地を分断して裏側に回り込み道路を新設し、その奥は附属建物が放置されたのではと思います。(あくまで私見)

破却前も破却後もこれらの絵図は不正確な点があると思われますが、破却前の絵図と対比すると、元の代官所の長大な白塀の間口は「生野銀山町絵図」のように狭いものではなく、もっと右手まで延びており、この一帯全てが元の代官所敷地だったのではと思われます。

元の敷地は、左手に代官所の建物ゾーンがあり、その間に道路があり、右手にも広大なゾーン(用途不明)が広がっていたようです。

元の代官所の外周には外堀があり、重要な「運上蔵」のまわりは内堀ですが、この絵には見えません。塀の中の樹木は、元あった松の木か何かの残滓でしょうか?

かっての代官所は、ここまで完膚なきまでに無残に解体されたことに大変驚きます。

この辺の事情をよくご存知の方は、ぜひコメントをよろしくお願いします。

(共同管理人:秋山)

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投稿日: 2014年3月25日 投稿者:

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