兵庫県立生野高等学校 同窓会ブログ3/生野義挙から150年を経て

各地でご活躍中の卒業生や友達、在校生、郷里、一般の皆さん、どんどんご参加下さい。このブログは、同窓会facebookに上げたオリジナル記事のうち、「生野義挙から150年を経て」シリーズを収録した「デジタルライブラリー」です。

「生野義挙」から150年を経て(その31)事変後、幕末の生野はどんな様子だったか?

 このシリーズも30回を越えましたが、もう少しだけ続けましょう。

 「生野義挙」後、明治維新までわずか5年でしたが、この間、生野はどんな経緯を辿ったのでしょうか?

 生野代官所は、事変後4年間は幕府方として、幕府命令で二度にわたる「長州征伐」の後方支援(兵糧、軍資金、人夫等の供給)に当たりました。

 しかし、最後は幕府方が敗北!これがきっかけで、慶応3(1867)年、「大政奉還」「王政復古の大号令」となり、形勢は全く逆転!江戸幕府は遂に崩壊し、270年間の幕を閉じました。

 生野代官所はこの間、時勢に振り回されオロオロするだけで、幕府崩壊とともに終末を迎えました!

29-0 徳川幕府軍(1864年) ロンドン・イラスト新聞

 この画像は、元治元(1864)年の「幕府軍」の行軍の様子(ロンドン・イラスト新聞に掲載)。

 この絵は、この年、京都で「禁門の変」(長州が会津・薩摩連合軍に敗れ朝敵に)が起き、「第一次長州征伐」(長州は戦わず恭順)で、まだ幕府軍が元気があった頃のもの。

 しかし、翌々年慶応2(1866)年の「第二次長州征伐」では、「薩長連合」が成り、幕府軍は長州藩4000に対し5万の軍勢で攻めましたが、士気上がらず幕府は敗北、講和となりました。

 これらの行軍に、生野代官所も後方支援の形で参加しましたが、幕府方は動員されたどの藩もイヤイヤながらの参加で、士気は全く上がらなかったようです。

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 生野では、文久3(1863)年10月、義挙はたった3日間で失敗しましたが、世の中は討幕運動が加速する一方で、事変の処理どころではありませんでした。

 もはやかっての「生野代官所」の威厳はなく、事変後も各村々で打ち壊し等が多発。

 そのため、代官所では、以下のように農兵を再び活用し「鉄砲隊」を編成したようです。

 「元治元(1864)年、生野代官、村々の鉄砲所持者を非常警備のため代官所に徴集。

 慶応2(1866)年、生野代官、村々の鉄砲所持者で銃隊を編成。」

 一方、中央情勢がひっ迫し、代官所は幕府命令で動きましたが、慶応3(1867)年、幕府が崩壊。

 この時、生野鉱山にも「休山命令」が出て最悪の時期となり、生野も大きな天地動乱の時代を迎えることになりました。

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 事変後5年間の経緯は以下(*は国内の一般的動き)

元治元(1864)年3月、*水戸「天狗党の乱」(水戸藩の尊攘派が筑波で挙兵するが失敗)

 5月、生野代官、村々の鉄砲所持者を非常警備のため代官所に徴集

 7月、*「禁門の変」(蛤御門の変とも、長州藩が朝敵に)。長州藩・桂小五郎が出石に潜伏

  *この頃から慶応4/明治元(1868)年にかけ、全国各地で「世直し一揆」が頻発

 8月、竹田町で打ちこわし事件(追放処分)

 11月、*「第一次長州征伐」(長州藩、不戦で恭順)。生野代官所は、支配地の播州から人夫、兵糧米等を供出

 12月、*高杉晋作、下関で挙兵(功山寺挙兵、長州藩の藩論が倒幕に統一)

慶応2(1866)年1月、*薩長同盟成立(討幕に弾み)

 6月、*「第二次長州征伐」開始。生野代官所は、軍資金負担、兵站の役割。支配地の但馬より300人を動員。代官所、支配下村々の鉄砲所持者で銃隊を編成。

 9月、*幕府、長州に敗北。講和

慶応3(1867)年10月、*「大政奉還」成る

 10月、生野鉱山に休山命令(鉱山最も廃れる)

 12月、*「王政復古の大号令」。江戸幕府崩壊、270年間の幕閉じる

  支配下の但馬各地でも王政復古が盛り上がり、各村で氏神祭の大祭

慶応4(1868)年1月、*鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争始まる

 1月、山陰鎮撫軍の官軍(薩摩一番隊と長州整武隊)、生野鉱山を占拠

 15日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望(公家)、参謀・折田年秀、生野に入る。3万7500両を接収

  生野義挙に功ある村人に国士格を贈与、苗字帯刀を許可

 このように、慶応4(1868)年1月、「戊辰戦争」が始まり、生野鉱山と代官所は山陰鎮撫軍が占拠。幕府方の統制は完全に崩壊しました!

            (共同管理人:秋山)

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投稿日: 2014年3月31日 投稿者:

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