兵庫県立生野高等学校 同窓会ブログ3/生野義挙から150年を経て

各地でご活躍中の卒業生や友達、在校生、郷里、一般の皆さん、どんどんご参加下さい。このブログは、同窓会facebookに上げたオリジナル記事のうち、「生野義挙から150年を経て」シリーズを収録した「デジタルライブラリー」です。

「生野義挙」から150年を経て(その26)生野代官所はどう動いたのか?(3)

生野の町の様子はどうだったのか?

近隣の藩兵はどう行動したのか?

 

次に、志士らが挙兵した時、生野の町はどんな様子で、近隣藩兵の出動はどのような様子だったのでしょうか?

26-1 幕末の所領配置図と藩兵の派遣

この図は、幕末の所領配置図(『兵庫県市町村合併史』(昭和37年、兵庫県)を参考に県が作成)。そこにこちらで、生野代官所・福本藩陣屋・但馬の郡名、丸囲みや矢印等を追加表記しました。

これを見ると、兵庫県の中北部一帯はほとんどが生野代官所が統治する「天領」だったことがわかります。しかし、生野代官所は全く武力を持たなかったため、近隣諸藩に藩兵の派遣を求め、いち早く藩兵が動いたことが義挙鎮圧の最大要因でした。

丸囲みが藩兵を派遣した藩(北から出石藩・豊岡藩、南から姫路藩・福本藩)で、藩兵が生野に向かう途中、逃走中の浪士たちを捕縛することにも成功しました。

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(3)挙兵時、生野の町の様子はどうだったのか?

文久3(1963)年10月11日午後、生野の町に突如現れた志士一行の物々しい様子や、12日未明、甲冑姿で代官所を占拠した志士らの姿、午後代官所に集まった膨大な農兵の群集、その後本陣から出されたお触れ等に、町では今にも戦いが始まりそうな雰囲気が漂った。

そのため、町民たちは慌てて家財道具を運び出し、一斉に避難したと言う。志士らは町民に、何もしなければ沙汰はしないと通達。代官所婦人も、いち早くいずこかへ避難。(婦人は町が落ち着いた19日、代官所に帰町)

前嶋雅光著『幕末生野義挙の研究』によれば、当時「生野銀山廻り」(当時町内はこのように称した。猪野々・竹原野・上生野・黒川・円山等の周辺の村々は除く)には約900戸あったようなので、戸当たり6~7人としても、5000~6000人もの膨大な人々が右往左往?

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(4)近隣の藩兵はどう行動したのか?

奈良「天誅組」の変直後でもあり、幕府方は志士らの不穏な動きに万全の体制を敷いていた。彼らは志士らに比べ圧倒的な情報量と動員力を持ち、代官所と地元諸藩の対応は素早かった。

12日未明、いち早く代官所が発した密使で、出石藩は占拠翌日の13日早朝、900人を超える藩兵を出動。翌14日には姫路藩が1000人の兵を出動させ、生野を南北から挟撃する態勢を整えた。

この間の経緯は以下。

12日午前2時前から、代官留守役の元締・武井庄三郎は旅籠・丹後屋から刻々と情報を受け、志士らが代官所を無血占拠する前後に、いち早く密使を近隣藩に派遣。まず、出石藩へ、続いて姫路藩や豊岡藩へ。

出石藩に放った密使は、13日午前8時頃、出石に到着。13日早朝には、一番手950人が、続いて二番手、三番手各133人の藩兵が出石を出発した。

前後して、占拠した生野本陣からは、近隣諸藩の出動を押さえるべく、12日(又は13日?)沢宣嘉卿の密書を持って太田六右衛門と松本市右衛門(共に竹田町、周旋方役)が出石藩へ向かったが、武井の密使の方が到着が早く、13日(時間不明)、途中の養父郡米地村で出石藩兵に捕縛された。

出石藩兵の生野到着がいつかは不明だが、13日深夜か14日早朝には到着したと思われる。14日午後4時、川上代官の事前手配通り、出石藩兵は生野町・寺町の6箇所の各寺に陣を張り分宿。生野の警護を固めた。

豊岡藩に伝わったのは13日午後だった模様で、豊岡藩の一番手(出立時間、人数不明)は、14日午前6時、高田村(養父郡)の蓮正寺に着陣。その後、生野に向かった。

この豊岡藩兵は、15日午前10時、上網場村(養父郡)に平野国臣と横田友次郎が駕篭で来た所を捕縛。16日には豊岡藩兵が竹田町に入り、不慮を戒めた。

姫路藩に伝わったのは13日中と思われるが、14日午前8時には、姫路藩兵1000人が出陣。その日午後3時、生野入口の森垣村に布陣し、午後4時、森垣村・延応寺に潜伏中の江上庄蔵を捕縛。

翌15日、姫路街道を南下していた本多素行を新町(神崎郡福崎町)の旅籠で捕縛。

この征討には福本藩兵(神崎町にあった鳥取池田家の支藩、旗本一万石、陣屋のみ)も出動した。

16日、姫路藩・福本藩兵らは引き上げたが、出石藩兵はそのまましばらく残って警備にあたった。(豊岡藩の引き上げ日は不明)

このように藩兵の行動は迅速かつ圧倒的な兵力差で、志士らが仮に戦ったとしても、勝ち目は全くなかったことだろう。

(共同管理人:秋山恒夫)

「生野義挙」から150年を経て(その26)生野代官所はどう動いたのか?(3)」への1件のコメント

  1. akitsune2014
    2014年3月25日

     この時、豊岡藩兵はどう行動したかについて、豊岡の町名主・鳥井家で書き継がれた「公私之日記」には、以下のように記されているそうです。これを読むと、出動を命じられた各藩も、後方支援など裏方も含め、なかなか大変だった様子が伺われます。
    「豊岡の町名主・鳥井山三郎に事件が伝えられたのは、1日経過した10月13日夕刻。
     日記には「暮前より大変義、生野銀山表正義一統押寄云々」とあり、翌14日、出石藩支援に出陣した豊岡藩の部隊に、町方からの人足調達を命じらた。
     15日には、陣中御見舞いと称して、豊岡の10町と藩主お目見えを許された者に対し、「蒸物10荷、御酒8斗、煮しめを10重」を豊岡藩本陣の日高・蓮生寺まで持参せよとのこと。
     「誠に迷惑の次第に候へども……」。仕方なく、握り飯は10町に割り振って用意。
     山三郎と由利三郎右衛門の名主2人、御目見惣代の壺屋由三郎とその供3人、人足16人が、翌早朝、日高に向けて出発。
     ところが、目指す豊岡の一隊はすでに八鹿町の網場に進んでおり、網場へ着くと、今度は竹田へ向けて出立後。大量の陣中見舞いを持ったまま、山三郎らが竹田に着いたのは15日夜中の1時過ぎ。
     宿がないので庄屋宅へ行くと、豊岡藩兵に貸し出して布団がないから泊められないという。そこで彼らは別の庄屋宅に宿泊し、「誠に難渋の趣、心配致す事に候」という次第だった。」
    (注:この時の豊岡藩の行動は、大正8年にまとめられた『竹田誌』にも、「16日、豊岡藩兵が竹田町に入り、不慮を戒めた。」とあり、符合している)
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    この項は以下から引用。
    ■生野の変(5)町名主 日記に「迷惑」(但馬歴史文化研究所・石原由美子、朝日新聞デジタル2013/6/25)
    http://www.asahi.com/area/hyogo/articles/MTW20130625290130001.html

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投稿日: 2014年3月25日 投稿者:

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