兵庫県立生野高等学校 同窓会ブログ3/生野義挙から150年を経て

各地でご活躍中の卒業生や友達、在校生、郷里、一般の皆さん、どんどんご参加下さい。このブログは、同窓会facebookに上げたオリジナル記事のうち、「生野義挙から150年を経て」シリーズを収録した「デジタルライブラリー」です。

「生野義挙」から150年を経て(その29)生野代官所はどう動いたのか?(6)

代官・川上猪太郎はどんな仕置きを行ったか?

 

「生野銀山とその町並み」が「国の重要文化的景観」として官報に掲載されたとのこと、良かったですね!

さて、この生野町にも関連しますが、「生野義挙」の連続シリーズをもう少し続けましょう。

事変後、義挙関係者への代官所の仕置きはどのようなものだったのでしょうか?

28-1 生野の変 但馬出身指導者 -

この表は、以前上げた「但馬出身指導者一覧表」(宿南保著『但馬史第5巻』より引用・加工)

改めて、ここに上げられた42人の処分を区分すると、

(1)逃走した者13人(討死1、出奔12)

(2)重罰の者9人(閉門6、入牢1、牢死2)

(3)軽罰の者7人(町・村預り4、謹慎1、召捕・釈放2)

(4)処罰なし13人(空白、実際には他に多数)

と、逃走や途中捕縛された者以外は、比較的軽い処置だったことがわかります。

 

なぜ軽かったのでしょうか?

生野代官・川上猪太郎の温情方針が大ですが、彼は農兵の組立てを許可・協力した立場でもあり、内面忸怩たる思いがあるものの、強い姿勢に出れなかったのではと思われます。

当時、村々の農民や民衆がこの事変をどう見ていたか不明ですが、事変以前から但馬の村々一帯では、過酷な年貢や豪農らへの不満から、農民の「強訴」や「打ちこわし」暴動が頻発し、事変以後も収まらなかった事情があります。

既に幕府の統制は完全に破綻し、農民や民衆は日頃の不満を非合法の「一揆」や「打ちこわし」でしか発散できず、志士らのテロに共感さえ覚える者が結構いたのではと想像されます。

先にご紹介した豊岡藩の町名主・鳥井家の「公私之日記」では、志士らを「正義の一統」と記す例もあったほどです。

通常なら、「見せしめ」のため徹底弾圧すべきところ、「無理に押さえようとすると逆効果」と川上代官は判断したのではと思われます。

また、武力を持たない代官所側も、事変を契機に、代官所警護や支配地の治安維持に武力が必須とわかり、その後も「農兵活用」を考えていた節もあるのではと思われます。

しかし、温厚策を取った川上代官は、「厳罰」方針で臨む京都守護職側と衝突し、東北に左遷される結果となりました。

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(6)義挙後、代官所はどんな仕置きを行ったか?

14日の破陣後、いち早い近隣藩兵の出動、町の警護、残党浪士の捕縛等により、生野の町中は日増しに落ち着きを取り戻した。

19日、避難していた代官婦人は代官所に戻り、23日、倉敷に出張中だった代官・川上猪太郎も帰町。

26日、志士一行が休憩した森垣村の「延応寺」を手始めに、事件に関与した者の取り調べに着手した。

11月5日、地元豪農や農兵指導者を代官所に呼び出したが、既に過半は逃走したあと。

代官留守を預かり代官所占拠を許した元締「武井庄三郎」や、農兵徴集で挙兵を手助けした形となった「地役人」(小国謙蔵、小川愛之助、木村松三郎ら多数)、志士一行が休憩した「延応寺」、夜を過ごした御宿「ひめじ屋」、兵糧方や通信役を務めた「町人」らに対して、「事情やむを得ず」と寛大だった。

参加農民についても、農兵組織化に関わった代官の温情方針により、全体に仕置きは軽く「厳命」程度だった。

事件を首謀した建屋村の豪農・北垣晋太郎の母「りき」も、代官所の尋問にあったが、「代官の処分が比較的寛大で、拷問等もなかった」と北垣はのちに述懐で感謝している。

 

この措置を不服とした出石藩から公儀方に密告があり、厳しい詮索が始まったのは、京都守護職・松平容保(会津藩主)が、御目付・戸川鉡三郎を巡見使として生野へ派遣してから。

11月7日、戸川は総勢30余名もの役人を引き連れ、銀山町に入った。

取調べ側の姿勢は厳しく、代官所明け渡しの不祥事の責任を取らせるため、元締・武井に「切腹」を迫った。

義挙に関与した多くの地役人、地元豪農、旅籠、町民、農民にも、「捕縛、牢入り」等の方針で臨んだ。

しかし川上代官はこれらすべてを拒否!このため、守護職側の取調方の滞在は長引いたが、この間の滞在費は全て町方持ち。不満の声が上がり、町方は代官に同情的だったという。

結局、この表に見るように、多くは「謹慎、町・村預け」等の軽い罰で決着した。

さらに後日、会津藩公用人・広沢安任らが生野に入るが、代官は再び要求を拒否。

このため、翌元治元(1864)年1月、京都守護職は川上代官を京へ呼び出し、生野代官職を解き、川上は奥州(福島の桑折陣屋)へ左遷された。

私見ながら、この川上代官の見事な一貫姿勢には、激動する時代を見据える眼力があったように思える。

(共同管理人:秋山)

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投稿日: 2014年3月25日 投稿者:

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