兵庫県立生野高等学校 同窓会ブログ3/生野義挙から150年を経て

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「生野義挙」から150年を経て(その10)義挙に参加した志士たち(4)

■「美玉(みたま)三平」(通称「美玉安麿」)

10-1 三玉三平・安麿(「近世紀聞」第四編より)
【薩摩藩脱藩、義挙中心人物の一人、宍粟郡山崎村の木之谷で討死、42歳】
〔絵は『近世紀聞 第四編』(染崎延房・条野伝平編、明治20年)から。添えられた句はいつのものか不明。書き出しは「小倉山もみじの…」と読めるが、全文わかる人教えて下さい!〕
〔文政5(1822)年まれ~文久3(1863)年10月14日討死〕

 本名:高橋祐次郎。生野の変では、地元豪農らと志士らを結ぶ重要な役割を果たす。
 江戸の昌平黌に在学中、庄内藩士の清河八郎と知り合い、過激な尊王攘夷活動へ。
 文久2(1862)年春、「寺田屋騒動」(薩摩藩主の父・島津久光が藩の尊王派を粛正)に連座し、藩邸に囚われの身となるが、江戸へ逃亡。のち京に戻るが、探索厳しく、文久3年(1863)3月、城崎へ潜伏。

 この時、北垣晋太郎や中島太郎兵衛ら地元豪農層と知り合い、意気投合。5月上洛して農兵組織設立の建白書を提出し、8月、朝廷と幕府から農兵組織認可。
 この頃、平野国臣に会って共鳴し、但馬で尊皇攘夷の義兵を挙げようと東奔西走。「天誅組」の大和挙兵に呼応すべく、平野らと農兵組織の参画を企図。
 9月、地元の庄屋や生野代官ら多数が参加した2回の「農兵組立会議」の裏で、10月の挙兵を決定、様々な工作を行った。
 生野本陣では「節制方」を務め、大阪の薩摩藩の有志あてに応援の勧誘状を送っていた。
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 破陣後、「中島太郎兵衛・黒田興一郎」兄弟(養父郡大蔵村の豪農)らと一緒に逃れたが、10月14日午後4時半頃、木之谷(宍粟郡山崎村)で、押寄せた百姓500人近くに囲まれた。
 百姓が実弾を撃ち始め、陣笠で凌いでいたが、松の陰から一発狙い撃ちされ、神社の巨大な椋の木の洞穴に身を隠した。
 「出て来い卑怯者!」と百姓どもの野次る声に腹を立てた美玉は、刀を杖に躍り出た時、狙いを付けた猟師の弾が美玉の胸を射抜いた。しばらく息はあったが、当日深夜、息を引き取った。41歳、義挙の長老格だった。

 同行の中島太郎兵衛・黒田與一郎の兄弟も襲撃を受け、深い傷を負った太郎兵衛はもはやこれまでと観念。兄の指示により弟・與一郎は泣く泣く介錯。太郎兵衛、39歳。
 興一郎はその場で自ら捕縛され、京都の六角獄に送られたが、のちに獄中で病死。
 美玉三平と中島太郎兵衛の遺骸は、生野代官所へ送還。牢屋で首を刎ね、塩漬けにして仮埋めされた。

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投稿日: 2014年3月24日 投稿者:

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