兵庫県立生野高等学校 同窓会ブログ3/生野義挙から150年を経て

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「生野義挙」から150年を経て(その11)義挙に参加した志士たち(5)

■「多田弥太郎」(出石藩)

11-1 多田弥太郎(出石藩士)=「但馬志士伝」「図解但馬の歴史」から

【記憶力や武術に優れた秀才。大阪に逃れるが、のち城崎で豊岡藩に捕縛、養父・浅間峠で殺害、39歳】

〔肖像は「但馬志士伝」(「図解但馬の歴史」)から〕

〔文政9(1826)年生まれ~元治元(1864)年2月28日殺害〕

藩校の弘道館に学び、江戸で藤沢東咳、古賀同庵、昌平黌に学ぶ。

外国船が来航すると、長崎で高島秋帆に西洋の砲術を学び、自ら木製の大砲を作り実射を行った。当時、大砲を持つ藩は近畿でも限られ、画期的だった。

藩主の継嗣問題で執政を批判。洋学導入をめぐって堀新九郎父子と対立し、8年間幽閉。

獄中で書いた40部に及ぶ「海防策」で有名に。文久2年(1862)、藩主の藩政改革により赦免。

その後、尊攘運動に加わり、同藩の「高橋甲太郎」「中條右京」と3人で生野の変に参加。(重用され、多田は「節制方」、高橋は「使番」、中條は「周旋方」)

本陣の解散議論時に、河上弥市南八郎)らが守る妙見山に行き説得に努めたが、聞き入れず。諦めた多田は、生野本陣に戻るとすぐに沢宣嘉卿に生野脱出を勧告。

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10月13日午後10時頃、同郷の高橋甲太郎を含む沢卿一行は本陣を脱出し、手薄な西北へ逃げたが、遅れて山中ではぐれ、三田尻(山口県周防市)に向かうのを諦め、大坂に逃れた。

しばらく京、大坂に潜んでいたが、翌文久4(1864)年2月、同志を募るべく、京都から因州(鳥取)へ向かう途中、城崎の旅籠に立寄り、出石に居る妻子を呼び出した。妻子が城崎に向かうことを知った出石藩士3人が後をつけ、潜伏先で捕縛。

しかし護送は、城崎から豊岡越えに出石には向かわず、迂回して養父・寄宮を通り、浅間峠にさしかかったところで、いきなり抜刀し、駕篭の中の多田を刺殺。

多田暗殺の密命を果たした3人は、その場で牢役人に遺体を引き渡し。藩の江戸留守居役は、途中乱暴に及んだので討ち果たしたと、藩主に虚偽の報告。

半年後これを知った出石藩主・仙石久利は怒り、事件に関与した者らを蟄居、役儀御免、減知などに処分。藩主は勤皇派で、その逸材を惜しんだのではと思われる。

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残りの同郷二人のうち、「中條右京」は、長曽我部太七郎(阿波)と追上峠から姫路街道を落ちていったが、猪篠村(神崎町)まで来た時、後をつけてきた百姓たちに銃撃された。

中條は、「自分は浪士ではない、出石藩の者だ」と言ったが聞き入れず、胸板を貫通して斃れた。長曽我部も、猟師の銃に背中から打たれた。中條右京21歳、長曽我部太七郎18歳。

中條は、「猿ヶ辻の変」(文久3年5月の姉小路公知暗殺)の際、抜刀応戦し、刺客を退けたほどの腕前。

中條の懐には「太平記」1冊と金2両が、長曽我部の懐にも金2両が入っていた。二人の首は梟木にかけられ、死体は付近の小丘に埋められ、墓石代わりに小石が置かれていたという。

もう一人の「高橋甲太郎」は、沢宣嘉一行と長州に落ち延びたが、第2次幕長戦争で幕府軍と戦って負傷し、慶応3(1867)年3月死去。44歳。

「生野義挙」から150年を経て(その11)義挙に参加した志士たち(5)」への1件のコメント

  1. akitsune2014
    2014年3月24日

    その他の志士
    ■本多素行(小太郎)
     元・滋賀の膳所(ぜぜ)藩士。天下に周遊せんと欲し、自ら咎を犯して士籍を取り上げられ、京都明暗寺で虚無僧となり「本多素行」と称した。
     但馬国養父郡の明暗寺の出張所に住み、四方の志士と交わり、尊攘運動に挺身。
     文久三(1863)年10月の但馬生野の乱では、主将沢宣嘉らに一旦その不利を説いたが聞き容れられず、やむなく加担した。
     敗れて播磨神崎郡福崎新村で姫路藩兵に捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年45歳。京都市東山区・霊山墓地に墓。

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投稿日: 2014年3月24日 投稿者:

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